大学日記

駆け出しの大学生が思ったことを書いていきます。完全に自己満でやってます。

機械に価値を作らせ、何もしないで生活することができる未来

僕はただの大学生だ。アルバイトこそしたことがあるものの、社会人としてフルタイムで働いたことはない。これから書くのは僕の理想の将来像であり、僕はそれが実現できると思っている。

 

「機械化が進んできて、機械に人間の仕事が奪われてしまう」という嘆きをたまに耳にするが、それは正しい。しかしそれは嘆くことではなく、喜ぶべきことだ。

だって「機械が人間の仕事を代わりにやってくれる」のだから。

例えばあなたが経営者だとする。今まで人件費を割いてやっていた仕事を機械に任せることができるようになったら?喜ぶでしょう。「機械に人間の仕事が奪われる」というのは労働者の考え方なのだ。

だから僕は経営者になる。自営業を行う。そこで機械を作り、価値を生産させることで生活する。こうすることによって、理論上は働かずして生活することができる。

したがって今の僕に必要なことは、どんな市場で機械化に需要があるか知ること、そして機械を組み立てる技術を身に着けることだ。

僕は今、機械を組み立てる技術を学んでいるし、製品の材料を手に入れる方法を学んでいる。僕はそう遠くない未来、全く仕事をすることなく生活しているだろう。この未来を想像しているからこそ、僕は大学生のうちに出来る限り勉強して、この理想を達成しようと努力できるのだ。

 

 

ただこの考え方には1つの落とし穴があることを自覚している。それは価格競争によって利益が出なくなることだ。

もし人類全員が充分に賢くなり、全員が経営者として、機械化の恩恵を受けながら生活することと仮定する。ここで僕がトイレットペーパーを機械に作らせて、それを市場で売ることによって生活しているとする。しかし他の誰かが全く同じ方法でトイレットペーパーを作った場合、全く同じ製品を作ることができるわけだ。そうなると市場で価格競争が行われる。全く同じ製品なのだから、消費者は安い方から購入する。そうと分かった僕と彼/女が価格競争を続けると、もうこれより下げたら利益が出ないという価格まで落ち込んでしまう(これはベルトラン競争と呼ばれている)。

このように、機械化を他の誰か1人にでも真似されてしまったら、そこに利益は発生しないのだ。

もちろん簡単に真似できないような機械を作ることによってこの状況は回避することができる。そのためには相当独自性があり、専門性の高い機械を作らなければいけなくなる。または他社よりも明らかに優れた機械を開発し、価格競争に耐えうる機械を作る必要がある。この2つのいづれかを満たせなかった人・団体は、機械化の恩恵を受けて生活することはできない。彼らは第三次産業など、機械化を行うことができない市場で戦う必要が出てくる。これはまた別の話だが、人類全員が機械化によって幸せになることはできないのかもしれない。

歌詞が主張していない音楽

歌詞が何言ってんのかわかんない音楽が好きだ。言葉として何も伝わってこない。でも雰囲気だけ作ってくれて、雰囲気だけ伝えてくれる。

もしかしたら僕とは全然違う価値観だったり、主張を伝えているのかもしれない。でも結局雰囲気しか伝わってないので共感できてしまうという。

いつでも自分にフィットしてくれる感じがする、何言ってんだか分からない音楽が好き。

 

参考:baba yetu, tofubeats,,,

幸せへの道しるべは「自分の感情」?それとも「合理性」?

生きる意味は充実感・幸福感だと思っている。このような感情をできる限り持つためには、何を目印として行動していけばいいのだろうか

僕なりの解答が2つある。それは「自分の感情」と「合理性」だ。

 

まず自分の感情についてである。

自分が好きだと思うものに取り組み、嫌いだと思うことを避けることができるなら、充実・幸福を感じやすい状況を作ることができるだろう。これは当たり前のように見えるが、ちゃんとできる人は多くないと思う。「〇〇をやりたくない」とか「〇〇は嫌い」という発言は、他の人に悪印象を与えるからだ。

個人的な見解だが、他人がどう思おうと自分の意思表示をしていかなければ充実・幸福は得られないと思っている。僕の意見を言うことで、僕の意見と近い考え方を持っている人と良い仲間になるチャンスを作れるし、僕の意見と遠い考え方を持っている人は僕から離れていく。これは僕にとってメリットしかないだろう。また、自分が意思表示をすることは、自己開示することである。他人との心理的距離が縮まる。

 

私はこのような信念を持っていたのだが、この信念が正しいのか不安に思えてきた。なぜなら上司がいるからである(僕は学生なので、ここでの「上司」は空想上の存在)。つまり必ず人間関係を持たなくてはならず、しかし僕の意見を無視できる存在である。

 

そこで次に僕が考えなくてはいけないのは合理性である。

もちろん充実感・幸福感を得るために、自分の感情に正直になることは必要なことである。しかし、客観的に見ると「自分の意見を言うメリット<上司に従うメリット」となっている場合があるだろう。このような場合は素直に従うのが合理的である。

 

以上の議論から「自分の感情」と「合理性」は相対するものだということが分かる。「自分の感情」に従うときは、今の状況をさらに良くしようという考え方に基いているが、「合理性」に従うときは、今の状況を悪化させないようにしようという考え方に基いている。

 

ではどちらの考え方が正しいのかということについて考察する。

私は長期的な視野で判断をするときには「自分の感情」に従い、短期的な視野で判断をするときには「合理性」に従うのが良いのではないかと考える。

例として大学受験を考える。大学選びの段階では「自分の感情」に従う。親や教師などに惑わされず、自分が一番行く価値のある大学を選ぶべきである。しかしいざ勉強を始めてみると、「自分の感情」としては大変な思いをして勉強したくないと考える。これは「合理性」に目を向けて自分の目標達成に向けて努力するべきである。

 

要するに常に長期的な判断を心がけていれば、それは「自分の感情」に従うことになる。上司に従うことも、それは長期的には給料を貰い余暇を充実させるということに繋がる。

僕は長期的な視野を持つことがどれほど重要かということを認識しなくてはならない。

人を招いている人は感謝をしている

今日の僕の気分で:

人を分類するとしたら、人を招いている人と招かれている人に分類する。

僕は基本的に招かれる側だ。人と積極的に会おうとしないし、一人ならそれでいいと思っているからだ。しかし人を招いている人を尊敬しているし、ああなりたいと思う。

なぜなら彼らは自分の会いたい人と会って楽しめているだけではなく、感謝することを知っているからだ。自分の都合に合わせて予定を作ってくれた人たちに感謝している。

僕みたいに常に招かれてばかりいると、人から招かれることが普通になってしまう。人と会うことに特別感を感じないし、人と会っている時間を大切にしようとしない。これでは人と会うこと自体に楽しみを見いだせないし、面白い人生になるはずがない。

 

僕は人との関わりが人生で一番面白いと思っている。招かれる側でいることは良くないことだって認識している。

多分、自分が好きだと思う人たちに嫌われることを恐れているのだと思う。だから特別な予定がない限り人を呼び出したりしないのだな。もっと積極的になった方がいいなって思うけどね。

経済学を勉強するために、数学が重要過ぎる件について

僕は大学で経済学を勉強している。しかしもともと文系なので数学的知識に難があるところがある。論文を読み進めていく中で、そこがかなりの障害となる。僕の一番の敵であり、また将来の友となるのが数学なのだ。

 

なぜ経済学では数学が必要なのか?それは経済学が数字を使って社会をよくしようと試みる学問であるからだ。まずは社会現象を数式化して、それを操作することによって答えを得ようとする。したがって数学的知識はあればあるほどいいのだ。

 

僕が昔やっていたバスケットボールに例えてみる。

経済学において、数学ができないのはドリブルができないのと同じ。それではパスだけでボールをつないでシュートまでもっていかなくてはならない。至難の業だ。敵が弱いならそれで突破できるが普通ならそうはいかない。

微分の基礎を学びました。これでやっとドリブルができるのと同じ。積分の基礎を学びました。これでスクリーンプレイもできるようになる。数学の集合概念を使いこなせるようになりました。これ40分戦える体力がつきました。

こんな風に、数学ができればできるほど、経済学で戦える範囲が広くなっていく。

だってそもそも経済学は数字を使うことを前提としているのだから!

数字が使えれば使えるほど強いんですよね!

タメ口について

タメ口について

カズレーザークリニックで美輪明宏が登場していた。
美輪明宏はタメ口が嫌いだという憂いを持ち込んだ。というより現代人の使う言葉が乱れているという話だ。
最近の報道で、子供が親に向かって「うっせえよクソババア」みたいな言葉を使っているのが散見される。しかし親しき中にも礼儀あり、礼節を重んじなさい。それがその人の品性を表すのだから。というのが彼女の主張である。

彼女の主張の中に賛同できる部分もあれば、違うと思う部分がある。
賛同できるのは「話し言葉はその人を表す」という部分だ。
雑に言葉を使う人は、生活も雑になるだろう。一方どう話すかに気を遣っている人は、他人にも気を遣える人になるだろうと思う。穏やかな話し方をすれば穏やかだ。それはこれからも気をつけていきたいなと思う。

賛同できないのはタメ語はダメだというところだ。
タメ語には無視できないほど大きな長所がある。まずは他の人を正しく判断ことができるという点だ。日本で顕著に先輩後輩という関係があり、先輩には敬語、同年代以下はタメ語を使うという慣習がある。敬語で接する先輩は、なんとなく凄い人って感じで離さなくてはいけない。また、逆に後輩はちょっとぞんざいに扱ってもいいような、そんな気がしてしまう。もしタメ語のみで先輩と後輩と付き合えるなら、とてもフラットな関係で接することができると思う。これは大きな長所だと思う。
また先輩や後輩と仲良くなれるチャンスが増える。もちろんタメ語で話すということは、敬語で話すときより気軽な雰囲気になっているから。

タメ語でも親しき中にも礼儀ありという関係性を作ることは可能だと思う。それは一人一人の意識の問題だと思う。
だから美輪明宏の意見には部分的に賛成って感じだったな。

タメ語には良い可能性があると思うんだよねぇ

面白い文章について

久しぶりのブログ更新となりました。

井上ひさしさんに関する面白い記事を見つけたので、それを検証していきたいと思います。

言葉の達人、井上ひさしさんが教える究極にシンプルな文章の秘訣|Career Supli

1.題名をしっかり考える

2.誰にでもわかる&自分にしか書けない ことを書く

3.いきなり核心から書く

 

彼の言葉として知られているのが

「一見くだらないことは真面目に書く。 難しいことは易しく書く。 易しいことは深く書く。 深いことをおもしろく書く。」

 

一見くだらないことを真面目に、難しいことを易しく、まではわかります。とても的を射ていると思います。

易しいことを深く、、、?深いことをおもしろく? この辺の感覚はよくわかりません。

 

自分理解できる範囲で文章に取り込んでいけたらと思います。

 

西域英美