大学日記

駆け出しの大学生が思ったことを書いていきます。完全に自己満でやってます。

上手い文章って何なんだろう?

私は言葉が好きだ。それが上手く紡ぎだされているときは幸福だし、逆に自分にその文章が合っていなければ何だか変な感じがする。他の人より言葉に関する興味関心は持ち合わせていると自負している。

 

私も上手い文章を書いてみたいと常々思っているのだが、上手い文章は何が上手いのだろう?私たちは文章から雰囲気を感じて上手い下手を決めつけがちだが、実際そこの差はどこにあるのだろう?

 

※とても恣意的な考え方をまとめます。

 

こんなテーマを掲げながら思ったことをまとめていきたい。

 

まず一つ思うのは、漢字、ひらがな、カタカナの使い分け方だ。

一番自分にしっくりくる言葉のチョイスが好ましい。格好つけて「ちょっと」を「一寸」と書いたりしない。またかわいらしく「すまほ」とは書かない。「スマホ」なのである。この辺の言葉の使い方で文章の雰囲気が決まってくるし、たいていの場合は一般的に用いられている方を常に使い続けたいと思っている。言葉の書き方に違和感を持たれてしまったら、文章の内容にも違和感を感じてしまうかもしれない。

また、漢字とひらがなはいい按配を考えた方がいいと思う。ひらがなばかりでは読みにくいし、漢字ばかりでも読みにくい。親しみの湧く文章にしたい。

 

 

次に句読点の使い分けである。

ここに関しては少し雑でいいと思っている。特に句点と読点の区別はそんなにしなくていいかなと思う。例えば「そういうのいいと思う、マジで」でもいいし、「そういうのいいと思う。マジで」でも良い。結構この辺あいまいに考えていいんじゃないかと思う。一番しっくりくるものを採用するのみ。

書き言葉では漢字、ひらがな、カタカナをうまく使い分けることで区切れをうまく作り出せる場合があるので、そういうのも意識したらいいかなと思う。

 

あと自己紹介系の入りは嫌い。

小説とかでよくある「私は斎藤忍。小心高校のバレー部の部長。」みたいな入り方はダサい。お前ずっとそうやってナレーションっぽく語れよ?って思ってしまう。

 

短編系の小説にしっかりとした設定はいらない。

短編系なのに名前と設定をしっかり決めてる文章があるが、その設定が分量に見合ってないときがある。設定ぜんぜん活かせてないなと感じることが多い。書き手のスキル不足と思ってしまう。

 

説得力のある設定

全然違う境遇、立場の人間も自分とおんなじこと考えてるんだなとか、視点が変わればこんなに考えが変わるんだなとか、そういったことがすんなり入ってくるとかなり良いと思う。恐らく文章の構成とかで読み手にすっと設定が入ってきているからだと思う。

 

もし他に思い付いたら別日に投稿します。

商業主義ってどうなの???

大学生になってから例えばバイトを始めたり、サークルに入ったり、文化祭で出店を出店したりすることで世の中にはこんなにも利益を中心に考えているんだと痛感させられる。

 

まずバイト。面接のときはニコニコしていた面接官は今は上から目線のうるさい上司。ちょっとしたミスへの過剰な叱責。お金払ってるんだからと高慢な客たち。人間とはお金の話となるとこれほどまでに冷たくなれるんだと。きっと社会に出てからはさらに冷たい人に会い続けるのだろうという悲観的な予想。お金さえなければ。

 

次に文化祭。前もほぼ同じ内容の記事を書いた。美味しくもない食品を文化祭という特別な状況を利用して売りつける店。売り子。亀裂が入っていく友情。お金さえ。

 

お金さえなければ、心にお金が無ければこのようなことにはならないのでは???

 

でもお金がないと生きていけないだろう??

それは正しい。認めたくないが、そのような社会になってしまっている。

おれは足掻きたい。もっと原始的に生きる方法は????

 

もっと原始的に生きる方法はないのか!!!????

 

おれは足掻いていく。

 

「お金を稼ぐために他人を利用する。極論自分が楽しめるなら、アルバイトの人生、売り子の人生、お客の人生、どうだっていい。いや勿論全員楽しめるならそれでいいんだよ。でもね、結局はお金でしかつながってないわけでしょ?」

「なんでそこまでお金が欲しい?」

「生活するにはお金は必要だろう?それを充実させるためにもある程度の収入と、将来のために貯蓄も欲しいだろう??」

「ではお金を稼げてる今の生活は充実しているのか?」

「そこまでではないが、もう少し稼げるようになったらきっと。きっと満足した生活を送れるだろうね」

「そもそもなぜお金を稼ぐこと自体に充実感を求めようとしない?」

学園祭の食べ物達に前売り券があるという事実

最近大学の文化祭があったのだが、びっくりした。

私が所属する団体の店だけでなく、他団体の出店ほとんどに前売り券なるものが存在している。それをメンバーに配布して売らせるのだ。もしノルマに達成しなかったらその差額分を自腹で払わされる。

この制度はうちの大学特有のものなのだろうか?なんだこの意味不明な券は??

彼らは本当に前売り券の意味、メリット・デメリットを理解しているのだろうか???

 

私の意見としては、前売り券自体の存在は否定しない。美味しそうな食品を前もって予約することで割引が得られるシステム自体はあっても誰も損しない。まずお客さんが自分たちの作る食べ物に対して「美味しそう!」って感情を抱いてくれたこと自体うれしいことだし、それに対する割引はあって然るべきものだと思っている。

しかしながらノルマを設定してそれを達成しなければ自腹で差額を払う制度は狂ってる。話に聞くブラック企業とやってる事おんなじだぞ。

前売り券は残酷にも他の意味も体現することとなる。

どれだけ前売り券を売れるかは、どれだけ仲のいい友達がいるかとほぼ同義であるということだ。友達が多ければ簡単に売りさばけるし、いなければ全然さばけない。

ただの友達少ない人いじめともいえる。それを許していいのだろうか???

 

また前売りのノルマ制は悪だ。売り手は心情的にダブルバインド、ジレンマを感じてしまう。このジレンマは「このチケット売り切らないと自分が損する」と「前売りを無理やり友達に押し付けなくてはならない」という相反する感情だ。

(「文化祭で販売される商品のレベル」を考えてほしい。素人がネットでレシピを調べて1-2時間試食ゲームをして出来上がった代物を売るのだ。有名店の食事券とはわけが違う。文字通りの粗品を売りつけるのだ)

僕は基本的に自分が損をするより、人に自信のない商品を売りつけることの方が嫌いだ。僕はそもそも友達多いわけじゃないけど、その友達に一人として前売りを売れなかった。

周りの人は気兼ねなく「この前売り買ってくれよ」とか「美味しいから買ってとか」とか「お前ふざけんな買えよ」とか言ってくる人いるけどどうなんだよそれ。美味しいかどうか全然わからないし、そのぺらっぺらの友情と150円は釣り合わねえよ。150円の方が何倍も重いわ!!!

 

みなさん、特に大学生の文化祭の一角を担う皆さんには

前売りの意味をもっと考えてほしい。売り上げのこととか、リスクヘッジのこととか考えてるからそうなるんだろ。別に売るのはいいけどそれで団体の仲間たちを傷つけたり、友情に傷を入れるような制度はやめてほしい。

仲いい友達は高校までを理解し始めた

大学に入り、高校よりも自由な生活を送っている。

授業も自由に取ってるし、バイトもできるし、バカなことをやってもそれを監視する人は少ないし、ばれなきゃ何やってもいい感は高校よりも強い。(スリルはないけどね)

そういう状況はある程度自由な生活を僕に与えてくれはした。しかし深い人間関係はそのような状況でできにくいことは間違いない。サークルも入っても入ってなくてもいいわけだから、気が変わったらそっといなくなるし、気が向けば適当なサークルに入ったりする。そりゃ、サークルに入ったところで深い人間関係ができにくいわけだ。

じゃあバイトは?授業は?メジャーで一緒の人、同じグループワークをした人とは??

全部同じ。みんな興味本位で入ったり抜けたりの繰り返し。

 

実は最近大学の文化祭があった。道を歩いているとヨットモから声をかけられ「出し物やるんだけど見に来ないか?」とか、「タイ焼き買わない?」と言われる。別にそれはそれでいいと思うけど、お前らそれ以外言うことないの????

人間関係って剥き出しの欲望のぶつけ合いだったっけ???

人間関係ってお金や自己顕示欲のためのストレートすぎる会話ってこと???

 

確かに言葉を交わしあっているのは間違いないが、それを会話と呼べるのか?友達と話していると言い切ることができるのだろうか?

頭の中が覗いて見えてしまうのって不格好だし、その中身が見え透いた欲望だったらさらにかっこ悪いと思う。

 

まあ、ばつの悪いことに俺はそういうことを今日少しして来た。ある団体に所属しているというだけでシフトと言うものに組み込まれてしまったのだ。営業をやってしまった

。本当はやりたくないのに。これだけ毛嫌いしている営業をやってしまった。

 

嫌だって感じを見せたくなかったから適当にやって見せたけど、幹事の人がいない間はただ突っ立ってるだけだったなぁ。

 

 

そんな気持ち悪い環境にいると一人じゃなくてもひどく孤独感を感じてしまう。こんなに人に囲まれてるくせに本当の友達は一人もいないって事実を突きつけられてしまうと一人でいる方がましなんだよね。

 

そんな人間関係の中で楽しめるわけがないだろう?おれは早々に帰宅してニコ動を見たよ。パソコンに向かってコメントを打ったよ。そっちの方が楽しいしね。孤独感がないんだ。

 

否が応でもクラスという一つのまとまった集団で過ごせる高校はとても素晴らしかったなと今更ながら痛感しています。

 

西域英美

人と極力関わらずに生き延びる→満足した生活を送るには?

 

 

他人と関わらずに生きていくことは難しい。

なぜなら、生きていくためにはお金が必要で、働く必要がある。

確かにインターネットを拠点にして働く場合には他人と交わらずに生きていく可能性はあるのかもしれない。しかし事業を広げようと考える、その時一人でできることは限られているので他人と関わる場面が出てくる。

今私はチラシのポスティングのバイトをしているが、それで稼げるお金は少ない。

しっかりとした収入を得るためには人と関わる必要が、場面がどうしても必要となるのだ。

 

じゃあ、しっかりとした収入なんていらないと思ってしまったらどうなるのだろう?

今まさにそれに直面している。

大学生だが極力人と関わらない授業、バイトを選び、その生活に半ば満足し始めている。

将来の生活にも暗雲立ち込める。

しかしこのようにポスティングのバイトを始めたことで、生活レベルを下げれば人と関わらずに将来やっていく自信をつけてしまった。

 

 

こういう人って大体人に話しかけられない、もしくは人と話が続かない人なんだよなぁ。

 

人に話しかけることで、もっと楽しい学生生活送ることってそんなに難しいことではない気がする。

 

次の記事で「人に話しかけ、会話を続けるにどうすればいい?」

に焦点を当てて考えていきたい。

 

絶対このような悩みを持っている人は多いと思うし(表舞台に出てくる人会話が得意な場合が多いから、会話が苦手な人の人数ははっきりと想像できないけれど)ネット環境を通じて悩みを共有して、できれば解決していきたいなと思う。

「安くてお得」に思うこと。

うちの近くには安くて早い私鉄と、ゆっくりで妥当な値のJRの二本が通っている。普段は家からより近いJRの方を使っているのだが、今日は気まぐれで私鉄の方を利用してみた。思うことは、学生が多い。とりわけイライラするような高校生が多い。群れてガン飛ばしてくるタイプの高校生だ。私も子供なのだ。イライラしてしまうのだ。お酒を飲んでいたら思わず「死ね」と罵ッてしまうだろう。イライラしてしまうのだ。そんな高校生がこの私鉄には多い。
一方、私がいつも使っているJRだが、こちらは学生が少なく、また、さっきみたいな高校生も少ない。いたとしても群れてない。ガラが悪くても群れる傾向はない。そこが安心できるところである。
この二つに見られるような違いは食事処にも見られると思っている。
安くていっぱい食べられる賑やかなイタ飯屋、スイーツの店にはうるさい高校生が本当に多い。友達と話す時に叫ばなくてはならないのだ。そんな時、私はイライラしてしまうのだ。具体的にいうと、ラパウザ、シェーキーズ。特にシェーキーズである。いくら安いからといって、サービスも悪くないからといって、足を運んではいけない。客層が酷すぎるのだ。このような時、少し値段が高めの店を狙うのがポイントなのである。少し値段をあげれば客層もよくなり、友との会話も楽しめるというものだ。少なくともお金をドブに捨てるような使い方よりましである。

楽しみたいなら少し高めを常に選ぶ。そうすれば失敗は少ないのだ。

ヲタクへの憧れ

最近はヲタクという言葉も様々な意味を持っている。かつてはアイドルヲタク、漫画ヲタクなど人に言いづらいサブカルチャーに対してのみこの言葉は使われていたのに、ギターヲタク、家電ヲタクなどといったような言葉、一般的に全く問題ないような言葉が使われ始めた。私は最近のヲタクの定義には納得していない。(これに関してはまた記事を書こうと思う)私が興味があるのは前者である。人に言いづらい趣味趣向を公にせず隠れて愉しむなんて。なんて興奮を誘うものであろうか。

 

私もおそらく望めばヲタクになることができるのだろう。いやできないのかもしれない。

私は心の中にストッパーがある。ヲタクになってしまった自分の末路。

毎日を自室の中で過ごし自分を失っていく。気づいたらとっくに就職の時期を逃して、ネットで就活の記事を他人事のように読んでいる自分。現実逃避に長け、現実を変える力を失っていく自分。

そんなイメージをヲタクに対して持ち続けているからこそ私はヲタクになれない。

 

ただ、そんなイメージも意外と固定観念だということも知っている。私にヲタクの友達が数人いる。私はヲタクに興味があるためたいていの場合声をかけて話せる仲になるのだ。彼らの中にはもちろん重度のヲタク、日常生活をゲームやアニメに捧げ人と関わるのが苦手な人もいる。しかし一目見ただけではヲタクだとわからない人も少なからずいるし、私がヲタクだと気づいていないだけでもっといるのかもしれない。ちゃんとした生活を送りつつもゲームやアニメへの愛は忘れない。サブカルチャー的なイベントには活発に参加して趣味を謳歌している友達を私は尊敬している。

 

ヲタクへの偏見はもう捨てなければならない

 

私はヲタクという生き方に対してある種の憧れを覚えている。

 

また、彼らは往々にしてミステリアスなのだ。考え方が一筋縄では想像できない。友達の誕生日会に来るものの端っこで携帯いじってばかりいるなど典型的な例である。そんなことしてるんだったら始めから来なくていいんじゃないかと思ったりする。集合写真を撮った後そそくさと帰っていくのである。ただ彼女は特に人と話すのが苦手というわけではなく、むしろ得意なくらいなのに大人数のパーティーでその輪に入ってこようとしない。大人数が苦手なのだろうか。その真相はわからないし、どういう考え方を持っているのか気になっている。

 

ヲタク・ミステリアス

 

またこんな例がある。私のヲタクの友達の一人が急に海外留学をしたいと言い出したことがあった。私はてっきり何かの漫画に影響されたのかと思っていたのだが、彼は孫正義の海外留学の話に影響されたのだそうだ。日本にとどまっているだけではビジネスチャンスは生まれにくい。海外で新しい物を発掘、また新しい考え方を発見していきたいといっているのだ。一般的にヲタクはサブカルチャー以外に対しての熱意や行動力が低いと思っていたので、彼の発言にはとても驚いた。またヲタクに対して新たな可能性を感じた一瞬でもあった。

よく考えてみれば彼らはそもそも行動力が高いのだ。興味や情熱を持つ対象がある人は強い。行動力も自然と身に付く。

 

ヲタクの方が行動力が高い。

 

私はヲタクという人種にある種の憧れを覚えている。

 

それに対して私みたいな人種はどうなのだろう。普通を装いながら家でただ怠慢に過ごしている。同じゲーム実況をBGMのように流して同じミュージシャンの曲を飽きても飽きても流している。たまに勉強を始めて、やめる。何の生産性もない暮らしをただただ当てもなく過ごしている。彼らのように興味や情熱があるわけではない。

 

どちらの生活が充実しているといえるのだろうか。望ましいのだろうか。

 

私はヲタクの考え方にある種の憧れを抱いている。