大学日記

駆け出しの大学生が思ったことを書いていきます。完全に自己満でやってます。

何かを表現するということ

何かを表現するということ。恐らく「表現」という一言を聞いたとき、皆さんは、小説や劇、時にお笑い、バラエティなどを想像する気がしています。しかしそれは例えばファッションであり、表情であり、会話であり、料理とかかもしれませんが。

 

全て自分の表現していることだと考えるとそう気軽に捉えられるものではありません。

 

想像してみてください。例えばあなたが知らず知らずに「Fuck you」と書いたTシャツを着るだけでPunkな印象を与えます。例えばあなたが赤と青のストライプのTシャツを着たとしたらそれはともするとアメリカンです。国旗みたいですから。

何もファッションに限ったことではありません。あなたの表情は自分で確認しにくい物ですから、他人にどう表情を読み取られるかはわかりませんね。

会話の中で、例えば「外人」と「外国人」などに見られる微妙な言葉遣いとかにも反応する人はいます。

 

私たちはもっと自分の表現していることを気にするべきかもしれません。

表現は何も小説や劇、お笑いなどの見世物という意味だけではありませんもの。

 

斯く言う私は特に何の思想を持っているでもありませんから。どのように表現していっていいものか。それは本当に表現していいものか。。。

私の中で葛藤が生まれます。

 

そうです。表現を意識し始めた時点で何か表現するものが必要であります。それは時に反発を生みます。

例えばあなたが「自由」を表現したいとします。それをファッション、会話、表情などに組み込んでいきます。そこで「規律」を重んじる人との衝突が生まれてしまうのです。

私は今、他人と衝突してまで表現したいことなんてありません。それが一つの表現の妨げとなっています。

 

今は「中庸」を掲げて人との衝突を避けていきたいところですが、「中庸」って何でしょうね。

 

そんな無意味な思考が生まれてしまいます。

 

こんな風にごちゃごちゃ考えるのは馬鹿らしいのです。

 

そうです。自分をできるだけありのままに表現してみてはいかがかなと思うのです。

それはとても自然なことであり、さらには奥ゆかしいのです。

一つの主義を掲げて一人の人間をそのドグマで満たしていくのは時に狂気的であると思いませんか。例えば私は簡単なことで笑ってしまいます。だからと言ってスマイルマークの服を着て、スマイルマークの帽子をかぶり、顔は常に笑っている。

行き過ぎは激しく狂気を感じさせるのです。

それに対して、ある人間の心情の移り変わりが小さく現実世界に現れることは奥ゆかしく感じられると思うのです。その奥ゆかしさを私は故意に表現できるようになりたい。

これが「キャラづくり」です。この行為は知らず知らずのうちに皆さんやっていることです。例として好きな子の前で格好つけるとかです。ああ、カッコいい自分をかわいいあの子にアピールしたい。キャラ作ろうとこうなるわけです。

 

例えば、私は(これを書いている私)どちらかと言うと理想主義者であり、綺麗でいたいと思う欲求がある一方、一人のお笑い好きとしてピンネタを作ってみたいなと思う。(お笑い芸人のイメージは汚い仕事でしょう?綺麗でいたいという欲求に反する気もするのです)

人間界では規律を重んじる保守派でありながら、一つの理想に向かって行動している人は革新的であったとしてもかっこいいと思う。

感情の波が激しい。一人の個性を保っているのか自分でも心配になる。

まあ、今日はこの辺で。眠くなってきました。

 

表現を考えていくとキリがないですね。

 

西域英美

オワリはじまり

もうすぐ今日が終わるーやり残したことはないかいー?

 

なんて歌があります。かりゆし58さんの歌です。その曲名は「オワリはじまり」です。でも私がこれから書くこととはあまり関係ないです。既に深夜27時を回るころですが、今日は終わっているのでしょうか?そんなこととは関係あります。

 

私がこれからここに書くこと。それを私は見返さなければなりません。

私の食生活を未来の私は覚えているでしょうか。一日のカロリーの八割を夜中に摂取しています。その内容は大抵はレトルト食品です。

このような食生活で何か不具合が生じているでしょうか?

確かに健康は害していません。気分は悪くありません。

 

私の睡眠生活を未来の私は覚えているでしょうか。就寝時刻は午前3時を回ります。明日何時に起きようとも深夜に睡眠に入ります。その睡眠時間に特に理由はありませんが、Youtubeをみていると気づけば気づけばこの時間です。

確かに健康的な体は保っています。気分は悪くありません。

 

このような生活習慣は実は他の要素に影響します。

例えば身の回りのこと。

皿洗いをしなくなります。掃除をしなくなります。ゴミはため込みます。宿題は後伸ばしにして、授業に遅刻します。

 

規律のない実態は規律無い雰囲気を生み出してしまうのです。

 

これを改善していきたい。またこうなるのを未然に防いでいきたい。

 

カギはオワリはじまりにあると思うのです。

 

「無意識は反復を好む」

 

私たち人間は周りに合わせることが習慣になっているでしょう?

私たち人間は今回も前回と同じことをしたくなるでしょう?

 

まず一日の始まりをしっかりとすれば一日しっかり過ごせます。

「さっきまでしっかりしていたよな私。今もしっかりしとこ」

 

意外と忘れがちなのは一日の終わりです。

 

終わり良ければ総て良し。あなたはつまらないイベントも最後の方盛り上がれば楽しかったと感じるでしょう?逆に最後がつまらないとなんかイマイチだと感じてしまうでしょう?

 

一日の終わりがきっちりしていたら、その日はきっちり過ごせた。そう感じるものです。

 

「あ、朝だ。昨日しっかり過ごしたし今日もしっかりしよう!」

 

オワリはじまりがとても重要だということです。

まずこの二つをしっかりやっていきたいなと思う次第です。

 

西域英美

先の見えない恐怖

先が見えない、この恐怖は大きい。

あなたは真っ暗な道を堂々と歩き続けることができるだろうか?

あなたは10年後絶対に生きている自信はあるだろうか?

 

先が見えない、暗くてわからない、想像しきれない、自分の脳みその範疇を超えるということはとても恐ろしいこと。あなたは人間としてこの事実をしっかり認識しているだろうか?

この認識は時に人間を自己保身に走らせ、時に人間を勇敢にする。

 

私はアルバイトを始めた。そのアルバイトでは一人でとあるサッカーコートを管理して、最後にコートに施錠するまでが業務である。基本的に最後は一人である。

私はこのアルバイトを始めた瞬間辞めようと思った。私に一人でサッカーコートを管理する能力はないと思った。

誰がいつ私に何の質問をするのだろうか?誰が私にクレームをつけるのだろうか?私の理解の範疇を超えた事件が発生したら私はどうすればいいのだ???

 

初日、二日目、私は破裂しそうだった。両日とも業務自体は何とか遂行できたのだが、両日ともバイト先に置いてあった荷物を持って帰ってしまうというヘマを犯した。特に二日目は大事なカギを家に持ち帰ってしまい、夜な夜なそのカギを返しに行く羽目になった。SECOMにひっかからないかひやひやしたよ。

 

こうしてバイト三日目を迎えたのだが、なんであろうかこの余裕は?

私の中から「先の見えない不安」が完全に消失していた。

業務中に私の理解を超える質問を一度もされたことがなかったからだろうか?

電話対応をしっかりこなせているからだろうか?

お客さんから「君、爽やかだねー」って言われたからだろうか?

 

全てである。

全ての業務において私は遂行可能なのである。

一度全てを経験したら不安は不思議と消えていく。

あんなに嫌だったバイトも続けてみようかなと思えている。

 

この教訓は意外と多方面に生かすことができるのではないかと思っている。

 

人間は経験したことのないものに対して異常に不安を感じてしまう生き物。

それを応用できるものは例えば以下のような状況。

「新しく習い事をはじめてみようかしら」

「まだ会ったことのない人と会う」

「死を受け入れる」

 

「私は経験したことのないことに異常に反応します」

「経験したことのないことって、そんなに怖いのかな?」

「実は平気だったりするもんだよ」

「アルバイトもそうだったしね」

「よし、挑戦しよう」

 

そんなことを考えていた一日でした

 

西域英美

表現者として存在し続ける鳥居みゆき

最近鳥居みゆきを観なくなりましたが、彼女はテレビに出演する以外に新たな活路を見つけ、多方面で活躍しているそうです。

 

かくいう私は勿論彼女の名前は存じ上げていましたが、彼女の本分など全く分かっていませんでした。

 

大学生になってお笑い研究会に入会した私は鳥居みゆきについて調べる機会を得ました。

 

彼女のことをありし人は天才と称します。

 

ピン芸人は押しなべて成功する確率は低いのです。あなたは覚えていますか?7年前ほどだったでしょうか、一発屋ブームです。彼女もそのブームの一人としてみなされてきました。その一発屋たちは大多数姿を消しています。しかし、彼女の目指すところは「表現者」であり、テレビに活躍の幅は縛られないみたいです。

 

過去の出演作品や動画を探ってみても、彼女は一貫して奇抜な雰囲気を保ってきました。しかし彼女のその雰囲気は精巧に創り上げられた一つのキャラクターではないのでしょうか?私は彼女の実際を理解できていません。

 

旅ずきんちゃんという番組が今年でしょうか。放送されました。彼女にかつての面影は残っているものの、彼女は基本的に一般人でした。私の友人にも彼女のような人はいます。そう感じました。

 

彼女のかつては一つの一貫した作品だとしたらどうでしょうか?

 

私は彼女の何を信じればいいのかわかりません。今でしょうか?過去でしょうか?それともメディアを通じて彼女の本分を理解するのは不可能なのでしょうか??

 

私は向こう何日間か彼女について考え、また私の理想のお笑い芸人をかたどっていきたいと思っています。

 

私がメディアに存在するなら、私はどのような表現者であればよいのだろうか?

 

西域英美

ストレス解消の重要性

一か月前、一人暮らしを始めました。

一人暮らしはやっぱり生活習慣が乱れがちだし、部屋も汚くなりがちなのでそうならないように気を付けてます。

そう思ってても汚くなっちゃうんですよね(笑)

その原因て基本的にはストレスだと思います。

疲れて帰ってきてから料理や皿洗い、明日のゴミ出しのこととかすぐに考えられません。特に何か失敗して落ち込んでるならなおのことだと。

個人的にはとてもメンタルが弱く、簡単なミスでも家に帰って落ち込んでしまいます。

二時間くらいユーチューブやニコニコ動画を漁って気晴らしをするのですがそれは物凄く効率の悪いストレス解消法だと思うんですね。明日とても眠いんです。

 

いいストレス解消法ないかなぁ?(笑)

 

西域英美

【商業主義について】気持ちの問題

以前商業主義に染まっている社会は嫌いだという旨の投稿をした。

人と人との関係をお金でつなぐとその関係は希薄になり、冷たくなってしまうという。お金のやり取りがあるとするならば人と人との直接の関係の上にあってほしいという理想もある。

ならば、インターネットを媒介としたお金のやり取りってものすごい希薄な人間関係の上に成り立っていると考えることができる。まずインターネットを介するだけで人間関係としては薄いものになりがちである。さらにお金が絡むとそれは加速する。

ではインターネットで商品をやり取りしようとするのはよくないことなのか?

多くの人が感じているように必ずしもそれが悪い物とは言えないと思う。

ただし、売り手がお客様の気持ちを考えてやりとりを行うべきだとも思う。

 

例えば売り手がある商品を安くインターネットで売ろうとしたとする。

勿論その価格で買えるというのは消費者側からするとありがたいことではある。しかし、売り手に「お客様に喜んでもらってるみたいだ。よりよいサービスを提供するにはどうしようか」という気持ちが必要だと考える。間違っても「この量を売りさばけばかなりの額が儲かり万々歳だ」という気持ちを持ってはいけないと思っている。

前者はお客様本位の考え方であり、後者は自分本位の考え方だ。

要は気持ちの問題だし、その部分は他人にはわかりにくい。しかしこのような考え方は例えば料金体系に現れてくる。ブランド品、例えばディズニーリゾートの商品は原価の何倍の値段で売っているのだろうか?確かに著作権の問題で他の商品より高くなってしまうのは分かるのだが、それにしても高すぎないか?という印象があるし、彼らはそのブランドを商品化することで過剰に儲かっている気がするのだ。個人的にこの商法は好きではない。

 

自己本位的な考え方は商売として長続きしないような気がする。そのような考え方では消費者側に立った考え方ができないと思っている。ここではカドケシという消しゴムを例に挙げたい。個人的にはこの商品には騙された!という感が強い。

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この商品は角がたくさんあるから消しやすいというウリを持っているのだが、どう考えても真ん中にある角で消すことはない。実際使ってみるとわかるのだがキューブ状の消しゴムが途中でもげたりして汚い。角をたくさん作ろうとして角の良さを全く引き出せてない。この消しゴムは過去に日能研で配られていたが、制作会社も日能研も商業主義の感が強すぎる。そんな気がしている。消費者のことが全く考えられていない消しゴムを受験する小学生に使わせる日能研はまさにお金儲けしか頭にないのだろう。

 

確かに教科書的には「企業は利潤を追求する」ものであるし「法人は利潤よりも社会貢献する」という定義かもしれないが、私は全ての会社が法人的な理念を持ってくれれば一番かなと思っている。

 

結局自己本位的か、お客様本位かということは気持ちの問題である。しかしそれはサービスと直結しているし、後々続いていく会社かどうかはお客様本位であるかどうかと同義であると信じている。

 

西域英美

上手い文章って何なんだろう?

私は言葉が好きだ。それが上手く紡ぎだされているときは幸福だし、逆に自分にその文章が合っていなければ何だか変な感じがする。他の人より言葉に関する興味関心は持ち合わせていると自負している。

 

私も上手い文章を書いてみたいと常々思っているのだが、上手い文章は何が上手いのだろう?私たちは文章から雰囲気を感じて上手い下手を決めつけがちだが、実際そこの差はどこにあるのだろう?

 

※とても恣意的な考え方をまとめます。

 

こんなテーマを掲げながら思ったことをまとめていきたい。

 

まず一つ思うのは、漢字、ひらがな、カタカナの使い分け方だ。

一番自分にしっくりくる言葉のチョイスが好ましい。格好つけて「ちょっと」を「一寸」と書いたりしない。またかわいらしく「すまほ」とは書かない。「スマホ」なのである。この辺の言葉の使い方で文章の雰囲気が決まってくるし、たいていの場合は一般的に用いられている方を常に使い続けたいと思っている。言葉の書き方に違和感を持たれてしまったら、文章の内容にも違和感を感じてしまうかもしれない。

また、漢字とひらがなはいい按配を考えた方がいいと思う。ひらがなばかりでは読みにくいし、漢字ばかりでも読みにくい。親しみの湧く文章にしたい。

 

 

次に句読点の使い分けである。

ここに関しては少し雑でいいと思っている。特に句点と読点の区別はそんなにしなくていいかなと思う。例えば「そういうのいいと思う、マジで」でもいいし、「そういうのいいと思う。マジで」でも良い。結構この辺あいまいに考えていいんじゃないかと思う。一番しっくりくるものを採用するのみ。

書き言葉では漢字、ひらがな、カタカナをうまく使い分けることで区切れをうまく作り出せる場合があるので、そういうのも意識したらいいかなと思う。

 

あと自己紹介系の入りは嫌い。

小説とかでよくある「私は斎藤忍。小心高校のバレー部の部長。」みたいな入り方はダサい。お前ずっとそうやってナレーションっぽく語れよ?って思ってしまう。

 

短編系の小説にしっかりとした設定はいらない。

短編系なのに名前と設定をしっかり決めてる文章があるが、その設定が分量に見合ってないときがある。設定ぜんぜん活かせてないなと感じることが多い。書き手のスキル不足と思ってしまう。

 

説得力のある設定

全然違う境遇、立場の人間も自分とおんなじこと考えてるんだなとか、視点が変わればこんなに考えが変わるんだなとか、そういったことがすんなり入ってくるとかなり良いと思う。恐らく文章の構成とかで読み手にすっと設定が入ってきているからだと思う。

 

もし他に思い付いたら別日に投稿します。